真田丸に見る人材マネジメントのヒント

大河ドラマ真田丸に見た!組織のトップと2番手の関係」   sanada-02

真田丸に見る人材マネジメントのヒント

  今回は第41回「入城」というお話で、主人公真田幸村が幽閉先の九度山を抜け出し、大阪城に入場するというお話でした。大阪城では徳川の侵攻に向けて、多くの浪人を雇い入れている真っ最中。一人ひとり受付所(人事部?)に向かい自分の名前を伝えています。そんな荒くれ者がごった返す中主人公幸村は、さっそうと入城を果たします。過去様々な出来事を経験した大阪城で、甦る記憶とともに、豊臣軍の中心人物たらんとする幸村の覚悟を感じさせる回でした。  

1.昌幸の幻影とそれを利用する幸村

今回は様々な人間が真田幸村という武将が注目を大きく浴びる回でした。実はこれまで主人公でありながらも、実際にはそれほど大きな活躍をしたことはなく(史実でもそのようです)真田丸という家族船の中で重要な役割を占めているにすぎないこの人物が、初めてと言っていいほど周囲の注目を浴び始めるその始まりのエピーソードだったのです。 これが非常に巧妙に表現されていたことが目につきました。例えば、徳川家康。相手方の対象ですが、彼は幸村の父に2度までも敗戦を強いられ、苦湯を飲まされた経験があります。その父は、幽閉先でなくなっているのですが、家康の中には大きな影を残します。 その影を背負っているのが幸村です。これまでの幸村はその影の大きさに影響され、自身の方向性を見失いがちであったのですが、今回はその影をあえて身にまとい、ともすれば利用しようともします。 この影響力、利用価値は誰よりも家康自身が理解しており、ドラマの中ではこう言い放ちます。  
「幸村がどれほどの武将であるかなど関係ない。真田安房守(幸村の父)の息子である事自体が重要なのだ」
  徳川家と豊臣家の最終決戦において、その決するのは、幸村の父の存在感でありイメージであり、だからこそ多くの武将が集まり、またモチベーションを高めて戦に臨むことが出来る。万が一にも負けることは許されない戦において、その点だけを家康は恐れているのです。 今回この影に焦点が絞られているのは明らかで、豊臣の対象である秀頼も、この幻影とそこから裏打ちされる幸村の能力に期待を寄せます。総じて豊臣家はこのような希望的観測にすがるような雰囲気を醸し出し続けてきました。そんため、豊臣家に限っては、この風潮はいつもと同じことなのですが、ここにこれまでと違う点が付け加えられました。 それが当の本人幸村です。これまで父真田昌幸のみならず、豊臣秀吉・上杉景勝といった武将にある意味振り回され続けてきた幸村が、今回は非常にしたたかに逆の立ち回りをします。彼は対象豊臣秀頼にこう言い放ちます。  
「これまでの父の実績は実は全て私のモノです。父は実は横で見ていただけでした」
  ドラマを見ているとそれは嘘だとわかるのですが、幸村は自らの立ち位置を有利に運び、組織を鼓舞するために、あえてこのように言い放ちます。そして続けて的確な意見具申を行い秀頼の信頼を一気に勝ち取ります。その前のシーンで、鮮やかに入城し、周囲の度肝を抜いた光景が描かれているので、単に幸村の優秀さを表現しているかのようにも思えますが、これは幸村の親離れ・成熟を見せつけるシーンとして描いたのだと思います。 それはこれまでの、真田丸が戦国時代という激動の時代を描いていたにも関わらず家族ドラマのように父がいて母・兄がいてと、あくまで真田家というシチュエーションの中で、進んでいたドラマが初めてその枠外にでたという意味でも象徴的です。ドラマ始まって以来(終盤のこの時期というのはそれ自体面白いですが)初めて主人公はたった一人で難局に、自分の意志と器と覚悟で立ち向かいます。 三谷幸喜はシチュエーション・コメディを得意とする脚本家なので、ある意味ココまではお家芸で、ココからが新しい取り組みと言って良いのかもしれません。そういう意味では、以前彼が手がけた大河ドラマ「新撰組!」も終盤の終盤まで新撰組というシチュエーションを中心に物事が進んでいきました。 ある意味、ドラマとして本当に面白くなるのかもしれません。  

2.不平/イメージとしての悪・徳川

影・幻影・イメージに突き動かされた回と表現した理由は他にもアリます。 今回、それ以外にも新たな動きとして新キャラが何人か登場しています。その中で九度山村の村人が、戦に連れて行ってもらいたいと申し出、配下の者として新たに加わります。彼の参戦動機は、「徳川の世になって、生きにくくなった。一泡吹かせてやりたい。この戦で出世したい」というものでした。つまり徳川の治世自体に大きな不満は描いていないのです。 ただ、以前に比べて息苦しくなった、締め付けが厳しくなった。だから徳川を倒したい、どうせならそこで出世も叶えたい、と少し短絡的な印象も覚えますが、わざわざこれをセリフとして言わせているのは、徳川に悪役感を出すことと、庶民を含め人は自分の命でさえも、そのようなイメージに寄って突き動かされてしまうということを書きたかったのかもと、少し勘ぐってしまいました。 さらに、秀頼の元に集まる浪人群もしかりです。今回は描かれて居ませんが、多くの浪人が先の大戦「関ヶ原の戦い」で徳川に破れ、不平を感じており、それをひっくり返そうと集まっています。対象である秀頼は見目麗しい若者ですが、彼が直接下々の浪人とやり取りすることは無いでしょう。ということは、象徴としての豊臣家と、敵としての徳川家、これも双方イメージによって、人が動かされていくさまを表現しているように思います。  

3.実力主義から、概念/象徴重視へ

もう一つ、大きな出来事が幸村の兄、信之の後継者問題が発生したことです。正妻と側室にはそれぞれ生まれた日が数ヶ月違いの子がいます。ただややこしいのは側室の子が兄で、正妻が弟という点と、弟の方が武芸に圧倒的に長けており、頼もしさを感じさせる表現がなされていました。 これは、家族ドラマとしての真田丸のイチ側面ですが、後継問題は、どれほど頼りなく見えても兄は兄ということで、側室の子が嫡男となることで決着します。これも後継者・嫡男という本来であれば(これまでの戦乱の世であれば)力のある弟が、実力主義を背景に後継者に収まる可能性もあったところに、今後300年続く江戸幕府の先触れとして、力では劣るも学問に優れ、何より兄であるという法的ルールを重んずる判断がくだされたという点で、象徴的であり、かつ概念を重視するという意味でこれまでの話にも共通するように思います。  

まとめ

このように全体を通して、時代の変化と抽象的な幻影/影に翻弄される人々を描いた回と私は感じました。若干ネガティブな書き方をしましたが、もちろん全体としては、前向きかつ今後の展開に期待をさせるとてもおもしろい回でした。この後、あと10回程度の放送を残していますが、ある意味これまでの真田丸とは少し違う物語が描かれるかと思います。 本ブログを書いていると、人の機微や、マネジメントに意識がいきます。その意味で真田丸は、多様な立場の人間劇を見せてくれるので、参考になることしきりで後10回程度しか見れないのがとても残念です。 ドラマが続いている期間はこのように今後も参考にさせてもらおうかと密かに考えております。]]>

この記事を書いた人

山本 浩平